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千葉県北部に広がる下総台地と南部嶺岡山系には古くから馬牧があり、大地を駆け抜けた野生馬と人々の生業が房総の景観と独特の文化を育んできました。近代、馬牧は近代農業の「揺りかご」となり、新たな作物を生み出すとともに酪農の先進地と発展し、現在の農業王国千葉の礎となります。豊かな恵みをもたらす房総の地には馬と馬牧とともに暮らした人々の悠久の歴史が刻まれています。
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古墳時代に朝鮮半島から日本列島へ馬がもたらされると、馬の文化は房総にも広まります。温暖で原野の広がる房総は馬の育成に適した所であり、馬は騎兵、輸送、農耕、儀式、貢納物として広まり、房総の遺跡・古墳からの豊富な馬具・馬形埴輪などの出土はそれを物語っています。
中世に入ると馬は武士団にとって象徴的な存在となり、房総武士団・房総平氏やその後裔である下総千葉氏、安房の武士団に君臨した戦国大名里見氏の軍事力は房総地域の牧と馬が支えていました。
吉保八幡のやぶさめ
上杉謙信臼井城攻の図
江戸幕府を開いた徳川家康は、軍馬の育成のため戦国大名千葉氏・里見氏の馬牧の整備を進め、ここ房総の地に徳川将軍の馬牧が成立します。馬牧は下総の「小金牧」と「佐倉牧」、安房の「嶺岡牧」の三牧で小金牧・佐倉牧は平坦な原野の広がる下総台地に嶺岡牧は嶺岡山地の尾根と斜面に所在していました。馬牧は総延長数百kmの土手・塁で囲まれ、この中に数千頭の野馬を育成していました。
将軍は旗本を野馬預に命じ、野馬預は野馬奉行に房総三牧を管理させました。牧には管理事務所である会所・陣屋が置かれ、牧士、勢子回し、綱掛、捕手、馬医などの専門職が日常の運営にあたっていました。
酒々井宿
小金牧士吉田家住宅
島田長右衛門家・島田政五郎家
広大な房総の牧の管理を行うため、野付(のつけ)村と呼ばれる合計約500の村々が野馬土手や野馬捕り施設の維持・管理、野馬の見守り、はぐれた馬の保護、狼・野犬の駆除等などの役務を負担していました。
一方、広大な牧の材木、山菜、草などは、周辺の村々に優先して払い下げられ、牧は負担とともに村々に経済的な恩恵をもたらし、農閑期に行われる野馬土手など修理作業は臨時収入となり、人々は牧と共存して暮らしていました。
土手の上で見物する人
馬を追い立てる勢子(村人)
江戸時代前半、軍馬の必要性が薄れると、房総の牧は転機を迎えました。下総小金・佐倉牧の一部は開墾され新田村となり、嶺岡牧では将軍吉宗が牛の飼育と乳製品の製造を命じる酪農が始まります。
明治時代に入ると房総の牧は廃止され下総の小金牧と佐倉牧の広大な牧跡地は、職を失った東京窮民の開墾地となり、さらには軍用地、酪農試験場、大規模民営農場などにも使用され、明治新政府の富国強兵のさきがけの地となります。
旧水田家住宅
三里塚御料牧場記念館
明治の幕開けとともに徳川将軍の牧は廃止され、北総の小金牧と佐倉牧は開墾され、幾世代のたゆまない努力ののち北総の大地は梨、落花生、スイカ、サツマイモ等の全国有数の生産地に生まれ変わります。また綿羊や西洋馬の飼育、獣医学の諸施設が置かれ近代酪農の先駆けの地となりました。
酪農発祥の地、嶺岡牧では馬の飼育から乳牛の育成に重点を移し、嶺岡一帯は一大近代酪農地へと成長し、後に日本経済を牽引する製乳企業を輩出するまでになります。こうして徳川将軍の牧は、房総に暮らす人々により「農業王国千葉」へと変貌を遂げます。
スイカ
落花生ぼっち
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